Yuichi
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八女・星野村から始まる物語
日本に根ざすブランドとして、この国の人々が何百年も飲み継いできた日本茶について、自分の言葉で語る責任を感じるようになりました。
コーヒーカップの仕事を通じて、産地やテロワール、焙煎度、抽出レシピについて数え切れないほどの会話を重ねてきました。そしてそのたび、同じ問いが返ってきます。
「では……日本茶は?」
海外で日本茶が紹介されるとき、それはしばしば、いくつかの便利なキーワードに縮められてしまいます。ヘルシー、抹茶、伝統的な日本らしさ。間違いではありませんが、それはほんの表層にすぎません。
日本のブランドとして日本茶を語るなら、自分の足で土地を歩き、自分の耳で聴き、世に出す言葉に責任を持ちたい。その思いが、一人の人物へと導きました。八女・星野村の木屋芳友園の木屋さんです。そして、その仕事場を訪ねました。
ここから、木屋さんとの対話をもとに、日本茶とその手仕事、文化、背景にある考えについて、少しずつお伝えしていきます。読みながら、ともに理解を深めていけたら嬉しいです。
最初の驚き——旨味のあるお茶
木屋さんがまず強調したのは、こういうことでした。多くの人にとって、「お茶に旨味がある」という発想はそもそも存在しない、と。
日本茶を深く知ろうと星野村まで足を運ぶ人でさえ、カウンターで初めて彼のお茶を飲むと、驚くほど似た反応をするそうです。少し笑いながら、彼は教えてくれました。
「第一声はいつも『なぜこんなに濃いの?』なんです。『濃い』と聞くと苦みや渋みを想像する。でも、起きているのはそういうことでは全くないんです」
濃く淩れた八女茶を口にした人は、しばし一瞬黙り込みます。そして少し驚いたように笑い、こんな言葉を口にするのだそうです。
「こんなに濃いのに、全然苦くない」
「まるで出汁みたい」
話を聴きながら、私の中にはっきりとしたイメージが浮かびました。小さな器に注がれた、液体の旨味のショット。濃密で凝縮されていて、それでいて舌には思いがけず優しい。
だからこの記事では、「濃いのに優しい」「旨味のショット」という言葉を使います。誇張ではありません。あの瞬間の体験に一番近い言葉を探した、それだけのことです。
香りの文化と、旨味の文化
日本茶をコーヒーや紅茶、烏龍茶と比べたときの木屋さんの一言が、とくに心に残りました。
「コーヒー、紅茶、烏龍茶……あれらは香りの文化と言えます。一方、日本茶は旨味なんです」
コーヒーや紅茶は、産地や製法、発酵、焙煎が形づくる香りの層の上に成り立つ飲み物。日本の緑茶は違います。葉の中にすでに宿っている旨味を、どう引き出すかなのです。
そこから話は自然と、湯の温度と時間のことに移りました。
「高温では、抽出はタイミングがすべて。一瞬を捉まえなければならない。でも温度を下げていくと、レシピに近づいていくんです」
温度。
時間。
湯の量。
これらを調整すれば、同じ茶葉からまったく違う表情を引き出せます。スペシャルティコーヒーの抽出レシピを試すのが好きな方なら、すでに覚えのある感覚かもしれません。日本茶もまた、高い解像度で向き合える飲み物なのです。
低温でゆっくり抽出した一煎目は、旨味のエスプレッソショットのよう。少し高めの温度でさっと淩れれば、軽やかで爽やかな、食事に寄り添う表情が現れます。条件を変えれば、同じ茶葉からできているとは思えないほど、別の飲み物のように感じられるのです。
「当たり前」が隠してしまうもの
日本国内での日本茶の位置づけについても話しました。
「私にとってお茶は、周りのみんなが飲んでいるものでした。暮らしの風景の一部。だからこそ、ただの普通のものだと思われているんです」
コーヒーも紅茶も烏龍茶も、日本には「新しいもの」「海外からのもの」として入ってきました。日本文化は外の影響を吸収し、その周りに流行やデザイン、言葉、物語という意味の層を築くことに長けています。一方の日本茶は、「ずっとそこにあったもの」のままでした。
夕食のあとに祖母が注いでくれたお茶。
食事の終わりに、お店が無料で出してくれる熱いお茶。
その身近さは、ある意味で美しいものです。お茶がどれほど深く暮らしに織り込まれているかの証ですから。しかし同時に、日本茶は「値段の見えないもの」として扱われ、あまりに当たり前すぎてその価値がほとんど見えなくなってしまったということでもあります。
話を聴きながら気づきました。コーヒーやカフェ文化は決して敵ではありません。コーヒーは、産地、品種、製法、焙煎度、抽出という共通言語を持つ、十分に成熟したクラフトとして認められています。対する日本茶は、カップの中にこれほどの可能性を宿しながら、その価値を伝える同じ語彙をまだ持っていないのです。
気候と希少性——お金だけでは買えなくなるとき
気候変動の影響と、生産者の減少という重い話題にもなりました。
心に残った言葉があります。
「以前は、お金さえあれば何でも食べられるし飲める、という感覚がありました。でも気候変動と生産者の減少で、本当に価値のあるものは、お金があるだけでは手に入らなくなり始めている。本当に分かる人たちのところに集まっていくんです」
良いお茶はもちろん高価です。しかし彼が指し示していたのは、価格をはるかに超えたことです。
ある地点を越えると——
・お茶はもはや単なる「高級品」ではなくなります。
・自分が何を飲んでいるかを本当に理解する人のもとへ、自然と流れていくものになります。
この記事で「ある地点を越えると、お金だけでは届かない」と書くのは、彼の言葉をそのまま延長したものです。
ひとつの斜面。
ひとつの茶園。
ひとつの季節。
そのすべてが、茶葉に直接刻まれます。その現実を日々生きる人が「お金だけでは買えないものが出てくる」と言うとき、その言葉は別の重みを持つのです。
未来への問い
日本茶をコーヒーと競わせたいわけではありません。そういう見方はしていないのです。
その代わり、木屋さんの一言が、共に目指せる目的地のように感じられました。
「洋食のあとは、自動的にコーヒーですよね。でも『コーヒーにしますか、紅茶にしますか、緑茶にしますか』と自然に聞かれるところまでは、まだ来ていない」
ニューヨークでもロンドンでもドバイでも、そして東京でも——食後に給仕がさりげなく「コーヒー、紅茶、それとも日本茶?」と尋ねる。エキゾチックな代替品としてではなく、ごく自然な第三の選択肢として。それが、私たちのブランドが向かおうとしている未来です。
コーヒーバーやレストランが、星野の特定のお茶をシングルオリジンのコーヒーと同じように扱う情景を想像します。
・茶園と作り手を、名前で紹介する
・土壌や気候、味わいの構造を語る
・ワインやコーヒーと同じ丁寧さと敬意をもって供する
こんな言葉を聞いてみたいのです。「今日のこのエチオピアのコーヒーと、星野のこのお茶は、酸味と透明感の方向性がとても似ています」
そんな説明がごく普通に聞こえる日。日本茶が、テロワールを宿すもうひとつの飲み物として、静かにコーヒーの隣に並ぶ日。それが私の見たい未来です。
家庭の味
話は、もっと身近なこと——日々の暮らしの中でのお茶の飲まれ方にも及びました。
木屋家では、夕食後のひとときに大きな急須が空になるのはごく普通のことだそうです。食後に誰かが一杯淩れ、しばらくしてまた誰かが淩れる。夜が更けるまで、急須は空になっては満たされていきます。
「美味しくて、飲みやすくて、体に良くて、手頃なんです」
この話から、「家のお茶」「その家の味」という言葉が浮かびました。どの急須を使うか。蛇口からどんな水が出るか。今日はどれだけ丁寧に淩れる気分か。
そうした小さな日々の選択が、やがてその家のお茶の淩れ方になっていきます。
日本には「味噌汁はその家の味」という言い方があります。話を聴きながら、日本茶もまったく同じだと感じました。その家の、優しく静かな表現なのです。
本当に濃く、しかも均衡のとれた、旨味豊かで角のない日本茶を一度体験すると、色だけが緑の飲み物にはもう戻れなくなります。贅沢や特別感の話ではありません。ただ、基準が一段上がり、舌が覚えてしまうのです。
カップの中にあるもの
これまで私は、飲み物の世界を主に器の側から——有田の磁器カップや食器を通して——見てきました。白磁の曲線。取っ手の厚み。温もりが手に伝わる感覚。それらをどうデザインし、どう伝えるかに心を注いできたのです。
星野村で木屋さんと過ごした時間は、あることをはっきりさせてくれました。カップの中の液体にも、器と同じだけの時間とリスク、静かな信念が宿っているということです。
あの日語り合った多くのことが、そこに重なります。
・香りの文化と、旨味の文化
・当たり前のものが見えなくなってしまうこと
・気候変動と生産者減少という現実
・本当に良いものが、本当に分かる人に届くようにという願い
日本茶を語ることは、ただ美味しい飲み物を紹介することではありません。農と手仕事、文化、リスク、そして心配り——そのすべてが一杯に凝縮されたものを見つめることなのです。
この記事は、木屋芳友園を訪ねた小さな一歩、自分の言葉で書いたフィールドノートです。これからの記事では、あの日語り合ったことをさらに共有していきたいと思います。
・湯の温度と抽出レシピの具体的な話
・日本茶と料理のペアリング
・日本と海外での日本茶体験の違い
一杯ずつ、ゆっくり書いていきます。
最後に、ひとつの情景を。コーヒーカップと日本茶の湯呑みが、同じカウンターの上に静かに並んでいる。八女・星野村から始まったこの旅を続けながら、私が心に描き続ける未来です。
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